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何が呼ぶのか、北へ北へ

人生の更新に、ブログの更新が追いつかない。あれこれの仕事がわんこそば状態の2月を終えるなり、今度は、バルト3国の一番北にある、エストニアに行ってきました。ベルリンから北へ1時間半のフライト。フィンランドのヘルシンキから、海を隔てて100キロ南にある、エストニアの首都タリンに9日間滞在して、展覧会をひとつ開けて、セミナーひとつと、1週間のデザインワークショップをこなした。

 

いろんな国から、呼ばれては出かける、という形で、ずいぶん仕事をしているけれど、ある時期は、やたらとフランスから呼ばれたり、またある時期はドイツからばかり呼ばれたり、それから、急に日本からちょこちょこと呼ばれるようになったり、呼ばれ方にも、不思議なトレンドがある。エストニアは、ここ1年半の間に、もう4回め。ここしばらくは、私におけるエストニア年という感じだ。

 

ヨーロッパでは、2001年からの、バジェット・エアの普及とユーロの導入で、個人の行動半径が確実に変わった。ヨーロッパ内の移動は、もはや、国内旅行の感覚だ。お金を変えたり、パスポートコントロールを受けなくても、ヨーロッパのたいていの国では、飛行機に乗って、降りて、そのまま街を歩けるから、日本で言えば、別の県へ行くような感じ。このバジェットエアが参入して、ヨーロッパ内の便数が膨大に増え、航空運賃も驚くほど安くなった。それ以前は、週末は割引があるものの、平日のヨーロッパ内の移動は、日本行きの切符かと思うくらい値段が高かったから、飛行機での移動はビジネス用、と言う感じだった。今では、ヨーロッパ各地にいる学生が、それで毎月、私のベルリンの講座に通ってくる。

 

同じころから加速して、インターネットや携帯電話による、コミュニケーションも普及しつくした感じがあるから、ヨーロッパ内の別の国の誰かに、連絡を取ったり、仕事を依頼をしたりということも、もうすっかり国内と同じような感覚で、できるようになったかもしれない。90年からヨーロッパにいて、いろいろ変わってきたことはあるけれど、身にしみて一番感じた大きな変化は、そういう意味での心理的な国境の消滅にある。

  

私におけるXXXX年、と呼びたくなるくらい、ひとつの国からやたらと頻繁に依頼を受けるようになったのも、ちょっと面白い展覧会とかフェアがあるから、ひとっ飛び行ってこよう、と、気軽に移動できるようになったのも、その時期からだ。ベルリンへ引っ越す一年前は、ほとんどバス通勤のように、毎月ミラノから飛行機に乗ってベルリンに通い、フライング・プロフェッサー(飛ぶ教授)と呼ばれつつ、ベルリン芸大でワークショップをやっていたけれど、そんな芸当ができたのも、この時代だからこそ。

 

あまりに頻繁にヨーロッパ内の飛行機を利用するようになったので、搭乗券を、老後遊ぶトランプ代わりにでもしようかと(往復の券で、神経衰弱ができる)、意識して集めだしたのは、2004年の9月からだけれど、搭乗券の枚数は、あれよあれよという間に、トランプの枚数を超え、今回のエストニア行きを加えて、数えてみたら、98枚。来週は、デュッセルドルフのフェアが主催するコンペの審査の仕事で、もう1往復するから、100枚。30ヶ月で、100回のフライトだから、月に平均、3.33333 フライト・・・確かに、そのくらいは、行ったり来たりしている。よくそれで疲れませんね、と人に言われるけれど、不思議にこれが疲れない。

 

たまりにたまった搭乗券。これで神経衰弱をしたら、本当に衰弱してしまいそう。

 

疲れないのは、往復ダッシュの筋肉が、しっかりついてしまったせいもあるけれど、島国日本で育った人間だからか、電車に乗って、とか、たった1、2時間程度のフライトで、まったく文化も言葉も違う、いろんな国に行ける、というのが、いまでも私にとっては、わくわくするヨーロッパの魅力だからかもしれない。

 

その上、飛行機大好き人間である。離陸のあの地上の重力から、ふわっと解き放たれた時の気持ちよさ。小型のジェット機で、地上を眺めながら行く夜間飛行。車好きのドライブと同じで、許されるならば、用事がなくても乗りたいくらい大好きだ。だから、飛べるチャンスがあれば、ほいほいと出かけ、でも長居はせずに、するべき仕事をして、また飛行機に乗ってさっさと帰ってくる。それで、やっぱりおうちが一番だ、と思ったりするのが、私の不思議な幸せだ。だから、自分の巣と、どこかを、行ったり来たりしながら、せっせと暮らしている鳥のようなもので、それで別に疲れもしないのだから、それが私の本性というものなのかもしれない。

 

それにしても、エストニアはいい。もともと、北の国というのは、妙にぴったりと性にあうところがある。それが、何の因果で、イタリアという南国で16年も楽しく暮らしていたのか、人生は、まったくもって摩訶不思議だけれど、イタリアがなければ、今のドイツ生活はなく、エストニアが今頃出てきたのは、そもそもは、6年前にフランスでやったワークショップがきっかけだったりするから、私の小さい脳みそでは想像がつかないほど、道は複雑で、ワイルドで、途方もなく長い。もう、呼ばれる声にひたすら従って、転んだり、驚いたりしながら、一歩ずつ前に進むしかない。

 

北国で育ったわけではないのに、子供のころに読んだ、アンデルセンやトーベヤンソンの童話が、原風景に入っているのか、北の国の、高い高い空や、銀色の海を見ていると、自分の原点に返ってきたような、不思議な安らぎを感じる。学生時代、初めて、建築を見にヨーロッパを旅行した時も、一番自分にしっくり来たのは、北欧だった。コペンハーゲンの、ルイジアナ美術館から眺める銀色の海では、波の合間に銀色の人魚姫の尾が見え隠れしそうで、ストックホルムから、ヘルシンキまで行く、シリアラインという船からは、トーベヤンソンの童話にでてきた、小さな島々が、めぐっては消えてゆくのが見えたから、きっとそこにいるニョロニョロを思いながら、それを、夢のように眺めた。

 

そのころのエストニアは、ソビエトに併合されていて、西側の鉄道ユーレイルパスでいける範囲には入っていなかったから、行かなかったけれど、北欧は、旅行の計画をしていた時から、とにかく一番行きたい地域だった。大学の建築学科に入って、初めて行った大学の図書館で、何か猛烈に惹かれるものがあって手に取った本は、スウェーデンの建築家アスプルンド(Erik Gunner Asplundの建築の本で、フィンランドの建築家、アルバー・アアルト(Alver Aalto)は、いつも、私のスーパースターだったから、電車を乗り継ぎ、船に乗り、ヘルシンキまでたどり着き、さらに、アアルトが設計したと言う、北極圏の真下にあるロバニエミという街まで、電車でさらに8時間くらい北上して行き、日が落ちない白夜の、細い高い赤松の森の中のベンチに1日座って過ごしたりもした。

 

そんなに気に入っていた北欧だったけれど、イタリアに来てからは、同じヨーロッパ大陸の中にいながら、ストックホルムとコペンハーゲンに何度か呼ばれただけで、それ以上北からは、呼ばれることもなく、どうにも縁がなかったのが、ここへきて、突如としてエストニア。イタリアに16年暮らしてから、いきなり、忘れるほど昔に通ったベルリンが出てきた時も、う~ん、ベルリンと来たか・・・、と、驚き、その上、ベルリンの住まいとなる、このニーマイヤーハウスがでてきたときも、20年前に地図に印をつけた「あの建物」がでてくるとは・・・、と、うなったものだけれど、その上に出てきたのは、フィンランドを越えて、エストニア。エストニアには、あの、自分の心に、ぴたっときた、不思議な北の空気が、満ちている。

 

偶然が恐ろしいほど重なっているようでいて、実は、細い人生の螺旋階段が、20年近く掛けて、ちょうど一周して、同じ地点の10センチ上にもどってきただけのことなのかもしれない。そして、これが、私の必然なのかもしれないけれど、本当に不思議だ。本当に本当に不思議だ。

 

 

阿部 雅世 公式サイト MasayoAve creation  www.macreation.org

 

 


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