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春疲労解消法

年齢とともに、坂がきつくなり、荷物が重くなるということか。一日が、一週間が、一ヶ月が、一年が年を追うごとに長くなる。大学の新学期が始まり、ハノバーの技術フェアで新技術の仕入れをし、ミラノのサローネに行き、と、バタバタとしてはいたものの、そうしんどいことをしたわけではないのに、4月はえらく長かった。やっと5月に入った。2007年マラソンは、やっと3分の1を超えたところ。今年もまだまだ長いなあ。ともあれ、3分の1は、無事超えたのだ。万歳三唱。

気がつけば、あたりはすっかり初夏の陽気で、朝5時半には、もう窓から朝日が差し込んでくる。数ヶ月前には、夕方4時半には、煌々と満月が昇ってきていたのに、今は、真っ暗になるのは、夜9時半を過ぎてからだ。ドイツには、「Früejahrs Müdigkeit 春疲労」という病名があるというのを、新聞で読んだ。春になって急に日が長くなり、そこに夏時間の調整も加わると、季節の変化に体がついていけなくなって、倦怠感がピークに達する、そういう症状を言うらしい。4月がしんどかったのは、そのせいかもしれない。

ティアガルテンの森は、4月に入るやいなや、みるみる新緑に覆われて、あちらにもこちらにも花が咲き乱れ、小鳥は1日中さえずり、寒くもなく、暑くもなく、心地よい風に吹かれてパラダイス。まことに労働意欲のなえる季節でもある。森の中には、あちこち芝生が広がる場所があるが、そのそこここで、バスタオルを敷いてごろりと横になり、日光浴をしている人もしょっちゅう見かける。空気はひんやりとしていても、日本のように湿気のフィルターがないからか、日差しは日本の真夏よりも強い。日陰は涼しくとも、直射日光の下では、痛いような暑さだからか、人によっては、芝生の上でもうパンツ一枚になって、甲羅干しをしている人もいる。

ヨーロッパでは、春になって、この急に強くなる日差しが来ると、ひまわりが太陽のほうを向いてしまうように、人がいっせいに太陽の下に出てきて、太陽のほうを向く。海岸の岩べりに、途方もない数の人が、裸になってぺったりと張りついている姿は、ナショナルジェオグラフィックのページの海岸のアザラシを見るようだ。(人間のなまっちろい裸というのは、どうにも無防備で情けないしろもので、アザラシのようには美しくないけれど。)

こういう傾向は、ヨーロッパでは、冬ずっと太陽が出ないから、その反動なのだ、と、聞かされていたけれど、ナショナルジェオグラフィック状態の海岸を見たのは、太陽の都市ナポリの5月の海岸だったし、グレーだ、グレーだ、と言われるベルリンの冬は、東京よりも青空快晴の日が多いくらいで、日照時間が短いとはいえ、雨も曇りもしょっちゅうある日本より、ずっと晴れの日が多いんじゃないの?というのが、私の印象だ。だから、ヨーロッパの人が、春になったとたん、わらわらと日向に出てきて、オゾン層の穴もなんのその、目を瞑って太陽のほうをひたすら向いている、というのは、「太陽足りない症候群」とでもいうようなヨーロッパ人のDNAのなす業なのかしらん、あの気持ちだけは良く分からんなあ、と、思いつつ暮らしていたけれど、「春疲労」の記事には、その治療法として、とにかく太陽を沢山浴びること、と書いてあった。なるほど、あれは、祖先から伝わる治療の一環だったのか。ああやって、みんな時差ぼけならぬ、季節ボケの体を、夏仕様に慣らしているわけだ。18年もそういうヨーロッパに暮らしてからなんだけれど、長年の疑問がめでたく氷解。

5月1日はメーデーで、祝日だったから、朝から思いっきり怠けた日を送ることにして、その日向でごろごろをやってみることにした。4月は思えば働きすぎた。3月も良く働いた。2月も忙しかった。良く考えたら、年の初めから、よう働いてしまった。この、今年も三分の一を越えたところで、思いっきり怠けておくのは悪くない。

森の中に住んでいるというのは便利なもので、家から歩いて3分のところに、大木に囲まれた芝生の原っぱがある。以前ベッドカバーに使っていた、しっかりしたテキスタイル1枚と、枕になる小さなクッション、水筒にスパイスティーを入れ、陶器のカップと、洋ナシとバナナを持って、家を出た。日差しは強くても、空気は結構ひんやりしているから、長袖の長めのカーディガンを羽織り、首にはスカーフをまくといういでたち。

うっそうと緑の茂る森の小道では、柔らかい葉っぱの一枚一枚から、なにか命の源みたいなエネルギーが噴出しているらしく、歩くだけで、すでに森林浴状態。。先週は咲いていなかった花が、いっせいに咲きだしている。池の鴨の子供は、まだ生まれていないみたいだけれど、大人の鴨たちは、若い葉っぱを揺らしている柳の木の下に、固まって座っている。

池の向こうの原っぱには、すでに、数人が、日向にタオルを敷いて、ごろごろしていた。平日の午前中は、いつも移動式のプリンクラーを回している原っぱだけれど、祝日は、青々とした芝生が広がるばかり。この原っぱの脇には、とても気に入っている大木がある。この木は、根元のところから3つに幹が分かれていて、「どうぞのぼってください」と言わんばかりのしつらえ。幹には、階段になりそうなこぶまでついている。冬の間は、大きな幹と枝だけだったのが、すっかり若葉で覆われている。去年の夏は、いつまでも日の長い夕方に、この木の上に、クッションを持ってのぼり、木の上で本を読んで過ごしたりしたけれど、この日は、もうすでに子供たちが登っていた。こういう木があれば、ジャングルジムはいらない。


原っぱへ出て、日向にベッドカバーを敷いて、ごろりと横になってみた。ああ、空が高い。でも、だめだ。直射日光が、痛すぎる。良く考えたら、私は、直射日光は苦手なのでした。木漏れ日がちらちらするの大木の木陰に、テキスタイルをずるずると引っぱっていって移動する。ああ、これなら快適。上を向いて寝ているだけで、目の前は、緑のライブの映像が動いている。目を閉じれば、小鳥のさえずりと、木の梢を渡る風の音、そして、草の香り。体の下のひんやりとした土の温度が、気持ちがいい。

徹底的に怠けたいので、ごろごろしたまま、デジカメのズームを操作しながら写真を撮る。幾重にも重なった新緑が、濃淡を織りなす木の梢のむこうには、抜けるような青空があり、そこに飛行機が直線の雲をひいて、横切ってゆく。ごろりと横を向くと、天使のような女の子が、小さなデイジーを摘んでいる。ごろごろしているだけで、被写体は向こうからやってきて、なんともいい写真が取れるではないか。うつぶせになって、顔を起こすと、原っぱの向こうには、イギリス風の茅葺屋根のティーハウスがある。ピクニック・バスケットをもった家族が、自転車をティーハウスのそばに止めていた。





こうやって緑の中で怠ける贅沢というのは、ベルリン市民が、等しく持っている権利だ。仕事ある人も、ない人も、お金がある人も、ない人も、大人も、子供も、年寄りも、この贅沢は、無償で享受することができる。ほおっておいたら、ぺんぺん草も生えないような土地で、毎日スプリンクラーで散水しながら、1本切ったら1本植える、という法律を死守して、植林の森を大切に維持していくことが、財政難で、もう新しいビルなど、ひとつも建ちそうにないベルリンの贅沢だ。森があれば、人は生きてゆける。都市豊かさというのは、次々と新しいビルをオープンすることではなくて、こういう基本的なことにあるのよね、と思いつつ、眠ってしまった。

目が覚めると、太陽がずいぶん移動していた。まわりには、お弁当をひろげて、ピクニックをしている家族連れが増えている。木に登っていた子供たちは、今度は水辺の探検をしている。なんだかおなかがすいたので、起き上がって、熱いスパイスティーをのみ、バナナを食べ、洋ナシも食べた。水辺に近いところでは、おばあさんが、折りたたみの椅子を持ってきて、そこに座って本を読んでいた。そうだ、本を持ってきても良かったな。でも、今日は怠けるのだから、ひたすらごろごろしよう、ということで、また横になって、緑と空を眺めたり、うとうとしたりして、なんにもしない午後を過ごした。



午後3時をまわったら、地面が冷たくなってきて、本格的におなかが減ってきた。さあ、そろそろうちに帰ろう、と、立ち上がる。直射日光にこそ当たらなかったけれど、寝ている間に、木が地面から栄養を吸い上げるように、地面からエネルギーをもらったようで、「春疲労」は、すっかりどこかへいってしまった。

 

阿部 雅世 公式サイト MasayoAve creation  www.macreation.org



 

 


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コメント 1

on

なるほど!!
私は去年の9月からミラノに住んでいるのですが、
ここのところずーっと体がだるくて
自分体力ないなーと反省していたのです。
春疲労と聞いてすごく納得!しました。すっきり!
太陽をたくさんあびます☆
by on (2007-05-16 20:31) 

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