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デザイン馬鹿の日曜日

家から自転車で20分ほどのところにある、大きなスーパーマーケットの巨大な駐車場スペースが、日曜日には蚤の市になる。蚤の市というよりは、がらくた市。学生曰く、ベルリンで一番ワイルドな蚤の市。天気がよくて、特別な予定が入っていない日曜日は、朝から、いそいそとこの市に出かける。クリスチャンが、日曜日のミサに通うのと同じ熱心さで、毎週通う。

 

この市場では、昨日買って今日もう捨てられたものから、50年、100年近くたっているベルリンの生活用品までが一堂に並んでいて、そこで暮らしてきたわけではない私にとっては、生きているドイツ生活用品歴史辞典のようなもの。ここで私はドイツデザインの洗礼を受ける・・・といえば、聞こえはいいけれど、実際にそこに並んでいるものは、観光客が行くような蚤の市のように、すでに選別され、価値を見出されたものではなくて、何百軒もの普通の家の中にあったものを、家財道具はもとより、ドアの取っ手、湯沸かし器から、洗面台、キッチンの棚、引き出しに入っているもの全部、下駄箱の中、屋根裏の倉庫、ガレージの中、壁にかかっていたカレンダー、テレビの上にのっていた置物にいたるまでを、全部ひきずりだしてきて、並べたような感じだ。

 

ここに来ると、ベルリンとベルリン周辺の、普通の人の普通の生活と、その人達が過ごしてきた時間の舞台裏にあるものが、よく見える。

 

並べられているものも、美しいとか、年代ものであるとか、誰のデザインであるとか、そういう価値すら見出される以前のもので、十束ひとからげの「がらくた」として並べてある。並べられずに、仕分けだけして、ダンボールの箱にめちゃくちゃに入っているままのものもある。値段はどれも、出展者の言い値で50セント、1ユーロ、2ユーロ、3ユーロ・・・5ユーロもついたら、超高級品。

 

タダでもいらない、というものが、99.9%といっても過言ではないくらいだけれど、毎週通っている一番の理由は、ここで見られる「ものの持つ気迫」に、興味があるからだ。

 

はき古した靴や、もうドア本体はもう存在しないだろうと思われるドアのノブ、タイヤもついてないさびた自転車の車輪、しなびた使いかけの石鹸が入ったままのセルロイドの石鹸箱・・・、それが、「買いたければ買え」、と、そこに黙って座っている存在感、その気迫といったら、怖いくらいのものである。

 

同じ1ユーロ、100円でも、ヨーロッパの1ユーロショップ、日本の100円ショップで並んでいるものに、こんな気迫はない。

 

このがらくた達が、「捨てられてなるものか」と、執念で生きている老人のような気迫に満ちているのに比べ、100円ショップに並んでいる新品は、同じ値段で評価されているのに、「ええ、ええ、どうせ私たちは100円ですからね。ね、安いでしょ。ねえ、買ってちょうだいよ。すぐ捨てたって、ぜんぜんかまわないからさ・・・。」と、生まれたときから生きることをあきらめているみたいだ。この違いは、いったい、どこから来るんだろう。

 

気迫のないものに魅力はない。だから、100円ショップというところは便利なようで、あまり長くいると、気分がめいってくる場所になってしまうのかもしれない。

 

デザイナーとして仕事をするからには、やはり魅力のあるものをデザインしたい。それも、魅力が時間によって消耗されないようなものを作りたい。あの気迫の秘密は何なんだろう、通っているうちに、なにかわかるような気がするので、こつこつと通い続けている。

 

このガラクタ市に通うもうひとつの理由は、ガラクタの山のなかからの宝探し。宝といっても、骨董的な価値とかそういう意味ではなくて、名もない誰かが、何十年も前に、ドイツの普通の生活用品としてデザインした、グラスだったり、陶器だったり。いまどき、どんなセレクトショップをはしごしても、みつかることが少ない、ただただひれ伏したくなるような、美しい形のものが、ときどきガラクタの仮面をかぶって隠れている。

 

こういうものを買い出したらきりがないので、見つけても、よほどこれだ、と確信しない限りは、一応市場を一周して、心を落ち着けて、もう一度見てから、買うことにしている。でも、まわっている間に売れてしまったら困るので、宝を見つけるたびに、青山次郎の名言「人が見たらカエルになれ」という魔法をかけながら歩き回る。

 

最近は、博打商業のサイコロをつくるようなことにも、デザインという名前が使われていて、なんとも気分が悪いが、世の中がなんと言おうと、私にとってデザインは、生活文化の更新作業だ。ガラクタの山のように積み重なる現実さまざまなものから、これは必要、これはいらない、これはここを更新して、と、進化してゆく生活にあうように、アップデートしてゆくことが、デザインという生活をつむぐ仕事の真髄ではないかと思っている。だから、こんなガラクタの山の中から、ぴたりと一瞬で宝を見つけ出す目を養うこと、これは私にとって大切な自主トレだ。

 

今日は、ひかえめに3点購入。計4ユーロの出費。戦利品をリュックサックに入れ、自転車をこいで家に戻る。ワールドカップにあわせてかどうか、やたらと天気がいいので、日差しは強く、結構汗をかく。シャワーを浴びたら、急におなかがすいてきた。昼食のパスタを準備しながら、本日の戦利品をしばらく漂白剤につけて、それから洗剤と熱湯で丁寧に洗って、並べてみる。

 

いいなあ。どれもいい。とてもあの途方もないガラクタの中に埋もれて、ほこりをかぶっていたとは思えない、美しい子供ばかりだ。きっと、あのガラクタ市へ来る直前まで、長いこと誰かに愛されていたのだろう。

 

なじみのない形の水差しの取っ手、でも、それを手に持ったときの絶妙なバランス。一見重厚なカップの口につけたときに、はっとするような薄さ。目では感じないくらいの、ふちつけられた微妙な角度の縁取りのお皿。このちょっとの角度のことで、お皿一枚も重力から放たれて、ふわりと軽くなる。ひとしきりながめてから、本日特上の戦利品のお皿で、トマトソースにバジリコの葉を散らしただけのシンプルなパスタを食べる。

 

このお皿は、メリタという会社が70年代につくったものだ。あらゆるがらくた陶器が放り込まれている段ボール箱の中に、たった1枚だけ隠れていたのを救い出した。メリタのものは、気になるものが今までにも結構あったので、食後のティーを飲みながら、ちょっと調べてみる。

 

メリタ Melitta。創業1908年のドイツのメーカー。1873年ドレスデン生まれの主婦、メリタベンツ(Melitta Bentz))さんが、34歳のときに、コーヒーが吹きこぼれない方法はないかしら、と、コーヒーをいろいろな素材で漉す実験をして、むすこが学校で使っている吸い取り紙が一番いいというのを発見し、それで、効率のよいフィルターを試作。そうしてペーパードリップ方式というのを世界で始めて開発して、1908年6月20日パテント取得。1908年12月15日、夫とともに、Melitta Bentz Company を立ちあげて、翌年のライプチヒフェアに出展し、1200枚のコーヒーフィルターを完売・・・というところから、会社の歴史が始まる。

 

すごい。あの紙フィルターのドリップコーヒーというのは、100年前のドイツのカリスマ主婦のアイディア商品だったんだ。それも思いつきのアイディアではなくて、あらゆるもので実験してみて、最良の素材を見つけ、あの不滅の形を、円形を折りたたんでデザインするところなど、デザイナーの鑑、と言ってもいい。デザインの歴史に出てこない人でも、すごい人がいるものだ。これがドイツのデザインの底力か、と思うとわくわくする。

 

1908年といえば、まだワルター・グロピウスは25歳。建築を学んでいたミュンヘンの大学を放校だか退学だか、あきらめて、今で言うフリーターとして仕事もなくうろうろしていたころだ。ちなみにデザインの神、ワルター・グロピウスは、学位をとっていない。よっぽど学校に不満があったと見える。学校をつくろうなんていう人は、たいていこういう人だ。ともあれ、画家から転進してAEGの工業デザインを手がけ始めていたピーターベーレンスのオフィスの実習生として拾われたのが1910年で、そのあと、グスタフマーラーの未亡人のアルママーラーと結婚して、この歴史を何度も動かしたといわれるすごい女性にはっぱをかけられてから、しゃんとする。しゃんとして、バウハウスなんかも作る。

 

日本の教科書では、ドイツの工業デザインの原点は、バウハウスに始まる・・・なんていう感じだけれど、そうじゃないんだな、ということが、こんなところから読めてくる。もしかしたら、このメリタおばさんあたりが、実はドイツの最初の工業デザイナーかもしれない、という気がしてくる。

 

ともあれ、この100年前のカリスマ主婦メリタさんが発明したコーヒーフィルターで立ち上がった会社は、その後延々とドイツのコーヒー文化に関わるものをトータルプロデュース。コーヒーカップから、コーヒーポット、ミルクジャー、砂糖つぼや、ケーキ皿など、ものすごい種類のものを戦前も戦後も作り続けている。だから、ガラクタ市にも、かなりいろんなものが出ている。デザイナーの名前はでてこない。製品番号だけが、メリタ何号何番、という感じで刻印されているだけだ。

 

気になったものを、ぽろぽろと拾い集めてきたけれど、ちゃんとした資料はないので、これを自分なりの推定で、時代順に並べてみる。それだけで、ドイツのデザインの歴史を眺めるようだ。特に、50年代から70年代にかけての白い陶器は、「ただ白いだけ」という、巷にあふれる昨今のシンプルスタンダードとは、くらべものにならないほど、ディテールの質が高い。もっとつっこんで調べてみたら、相当面白い話が出てきそうな感じだ。

 

メリタの陶器の骨董価値は少し上がってきているようだけれど、なにしろどこの家にもワンセットはあるようなものなので、ドイツ人は、このすごさに気がついていないような気がする。でも、本当にすごい。こんな美しいカップやお皿は、いまどき、どんなセレクトショップやデザインショップでも、そう簡単には見つからない。

  

昼食を終えて、本日の戦利品を、簡単に図面に落としておく。これは私が、「これは」というものに出会ったときにする、デザインの自主トレだ。よそ様の家のものは、顰蹙をかわないような状況ならば、チャッとノギスをだして、計測させていただく。やっぱり2ミリか、なるほどね、なんて。

 

こういうことを、ずいぶん長く続けていると、6センチとはなにか、2ミリとは何か、この直径で、この角度がつくと、こうなるわけね、なんていうことが、自分の身についてくる。自分が、どういうわけかいつも惹かれる形やカーブに、共通する秘密が見えてくる。写経のような作業だけれど、毎日使ってみたり、図面に落としたりすることで、これをデザインした人の能力が、のりうつってくれたらなあ、と思いながら、やっている。

 

というわけで、本日は自主トレ三昧、デザイン馬鹿の日曜日。

 

こういうことをしているのは、本当に楽しくて楽しくて、どうしようかと思うほど、楽しい。

 

 

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阿部雅世公式サイト MasayoAve creation  www.macreation.org

 


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hara_taka

最初は長めの文章にちょっと怯んでいましたが、今はいつも楽しく読ませて頂いています。阿部さんと橋場さんのブログは必読です!昨年の駒込でのエキシビジョンは、日にちを勘違いして撤収日に行ってしまったため、ちゃんと拝見できませんでした…また日本でのエキシビジョンを楽しみにしています。今日の記事、古い物を扱う商売人として、モノの見方の参考になりました。やはり商売人とデザイナーさんでは見方が違うのかも知れませんが、「デザイナー目線を理解出来る」商売人にはなりたいものです。全く同じ目線である必要はないとは思いますが。これからも楽しみにしています!“博打商業のサイコロをつくるようなことにも、デザインという名前が使われていて、なんとも気分が悪いが、”こういう事をちゃんと言えるデザイナーさん、とても貴重だと思います。
by hara_taka (2006-07-11 10:42) 

ながしま

はじめまして。私は長嶋と申しまして、forum bmkというサイトを運営するものです。
現在「ベルリンで一番」という特集をしておりまして、こちらのページを見つけました。お許し頂ければ「ベルリンで一番ワルドな蚤の市」として特集ページからリンクを設定したいのですが、いかがでしょうか。
by ながしま (2007-03-15 22:30) 

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