『にほんご』 根本を問う教科書
昨年のあれやこれやを引きずりながら今年に突入したが、やっと1週間ほどの時間ができたので、1年分の仕事フォルダーを整理する。障害物走のハードルが、ずずず~っと見えなくなるほどの向こうまで並んでいるトラックを、ただひたすらゴールに向かって走る1年だったので、走りながらこなして、えーい、とパソコン内のフォルダーにほおりこんだままになっているものもたくさんある。気が遠くなるほどある。フォルダーを開けると、出てくる出てくる玉手箱・・・。
今日は、その中から、昨年のAXIS誌vol.148 (2010年12月号)に寄稿した書評をひとつ転載。日本に、こんな素晴らしい教科書をつくった人たちがいることを今頃知って、昨年一番の衝撃を受けた、「にほんご」という本についてです。
国語とは何か、根本を問うことで広がる世界
『にほんご』
著者 安野光雅、大岡信、谷川俊太郎、松井直 編 (福音館書店 1,575円)
評者 阿部雅世
国語、算数、理科、社会、一通りすべて履修してきたはずなのに、よくもまあ、その根本を知らずに、この年までのうのうと生きてきたものだと、齢五十に近づ いてなお冷や汗をかく。そして、そんな話を同世代の友人にしてみると、誰もがそんな思いをしているという。おきまりの教育階段は普通に登ってきたはずなの に、なぜ一番肝心ともいえる部分が抜けているのだろう……。
自分の不勉強もさることながら、この問題をさかのぼって検証してみると、国語とは何か、算数とは、理科とは、社会とは何か、その広い広い分野の真髄について、実に何の説明もないまま、「それでは、教科書の5ページから……」と始まってしまう初等教育にも、その責任の一端があるような気がしてきた。
六歳の子供には複雑すぎてわからないだろう、というのが最初に説明されない理由かと察するが、それは実のところ、子供にわかる言葉で説明できない大人の問 題である。まじめに履修していれば、いつか全貌が見えてくるのだろうと信じて、学校教育の階段を昇り始めるが、結局、その全貌もキモもつかめぬまま、もの すごく中途半端なところで終点を言い渡され、あとは、ただ忙しいばかりの人生を送り、随分時間がたった頃、自分の無知蒙昧にがく然とするというわけ だ……。
それでも、はるか昔に履修したはずの分野が、実はこんなにも広く、謎と可能性に満ちて、今もきらきらと自分のまわりを飛び回っていることを、いまいちど丁 寧に説明してくれる本に出会っては救われる。そして、その度に、最初の最初にこんな風に説明してもらいたかったと思う。
そんな思いを強くしていた折、この「にほんご」という本を贈られて、ひっくり返った。1979年に初版発行、52版を重ねているこの本こそは、安野光雅、大岡信、谷川俊太郎、松井直という日本の教養を凝縮したような人々が、国語とは何か、を小学一年生に伝えようとして作った本だった。
「小学校一年国語教科書(私案)」として編されたこの本は、1.言語の基本である、話す・聞くを重視し、2.ことばは口先だけのものでも、文字づらだけの ものでもなく、全身心を挙げて関わるものだということを知ってもらい、3.「にほんご」を地球上にあるたくさんの原語の一つとしてとらえ、4.自分の使っ ている言語が、絶対唯一なのではないとしることで、ひいては他人とのまじわりのむつかしさとおもしろさに気づいてもらうために、そして、母国語である日本 語を通して、子どもたちにことばと、ことばを通しての人間のありかたに目覚めてほしいと願って、世に出したものだという。
銀河ほどにも広い分野の真髄を一粒のダイヤモンドに凝縮するような、30年前の渾身の仕事にひれ伏して感謝するとともに、どの分野にもこういう本が必要であることを、あらためて痛感させられる。
(AXIS誌vol.148 P.72 本づくしに掲載 )
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阿部 雅世 公式サイト MasayoAve creation www.macreation.org
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